Nov 14, 2009
引越し先に到着して。
初めて一人暮らしをした時、自分が借りた賃貸マンションの近くには、二人の姉妹の姉の賃貸マンションがありました。このため、最初の一人暮らしでもそのように不安でした。引越し業者への新幹線が到着すると、駅の新幹線ホームには、お姉さんがお出迎えナワジュていました。引越し業者で久しぶりに会った姉の笑顔が心に残っています。続けリフォームしたかったのですが、まだ使用することのうちは勿体無いと使用して、トイレが壊れている念願の当時の最新式だったのふたが勝手に開くウォシュレットトイレリフォームていました。田舎なのに最新式のトイレは、遊びに来たお客様には非常に不思議がられました。今回の人を検出してホット便器されているトイレのリフォームしたいと思います。
相場英雄の時事日想・震災ルポ(4):
筆者の相場英雄氏は、宮城県の北東部に位置する雄勝地域に足を踏み入れた。大津波が押し寄せた町はどのような姿に変わり果てたのか。震災ルポの最終回をお送りする。
【他の画像:雄勝町公民館の屋根に乗り上げたバス、ほか】
石巻市街から雄勝に向かった筆者は、震災、特に巨大津波が残した生々しく、残酷な傷跡をつぶさに見た。だが、雄勝地域では、傷跡どころではなく、津波の暴力とでも言うべきすさまじい破壊力を見せつけられた。大自然の脅威におびえつつ、雄勝町の中心部から、水浜地区までたどり着いた。
●津波の暴力
大川小学校近くの集落から、筆者は釜谷トンネルを抜け、一路雄勝町へ急いだ。峠道は所々で陥没し、地割れが目立った。自衛隊や地元業者が懸命の復旧作業の真っ最中だった。
峠道が下りに差し掛かると、筆者はまた息をのんだ。雄勝町の中心部が見え始めたからだ。自衛隊の車両、宮城県警のパトカーが頻繁に行き交う中心部で、筆者は路肩にクルマを停め、周囲を見回した。
道路は自衛隊が二車線を確保してくれたおかげで、普通に通行が可能だった。ただ、周囲の光景は異様としか言い様のない状態だった。
台風の被害で崩れた街並を目にしたことはあった。筆者の地元、新潟県三条市が水害に遭遇したあと、故郷の変わり果てた姿もつぶさにみた。二度に渡る中越地震の惨状も知っている。だが、眼前に広がる光景は、今まで筆者が一度も目にしたことのない景色だった。
鉄筋がなぜ不自然な形で折れ曲がるのか? どうして高い木の枝に漁具がブラ下がっているのか? 小学校の3階にがれきが突き刺さっているのはどのような力が作用したのか? 公民館の屋根に大型バスが乗り上げるには、どの程度のエネルギーが要るのか?
同地区を歩いている途中、奇妙な鉄の棒を頻繁に見かけた。地面から伸び、折れ曲がっている棒の正体は何か。しばらく歩くうち、答えを見つけた。鉄の棒にコンクリート片がまとわりついている物体を目にしたからだ。正体は津波によってコンクリートがはがれ落ちてしまった電柱だった。
雄勝の中心部は深い入り江の奥にあり、周囲を険しい崖や山に囲まれている。リヤス式海岸の奥深くに押し寄せた津波は、谷間の町にあらん限りの暴力を振るって去った。
●水浜
雄勝の中心部から5分ほど走ると、カーナビが目的地周辺だと告げ、案内を止めた。丘の上の集落が見えたので左折すると、急に道幅が狭くなった。山間の集落では、しばしばこうした道路がある。公道の感覚で進むと、いつのまにか民家の軒先に突き当たってしまうようなケースだ。
だが、先をうかがうと、筆者はまたも誤解していたことに気付かされた。道が狭くなっているのではなく、津波によって民家がそのまま道路の中心までスライドしていたのだ。ここでも津波の暴力に絶句する。
クルマを後進させ、表通りに戻る。すると、道路の先に自衛隊車両が停車した避難帯を見つけた。ここにクルマを停め、無線傍受係の隊員に尋ねると、かつて保育所として使われていた場所が避難所だと教えてくれた。
筆者が避難所に顔を出すと、ちょうど地区の主婦たちが炊き出しの真っ最中だった。ご婦人方は驚くほど朗らかな表情で筆者を迎え入れてくれた。元来、東北人、特に宮城県人は人見知りが多い。初対面、しかも髭面(ひげづら)の筆者のような不審者は警戒されて当然なはずなのに、海辺の小さな集落、しかも大惨事を経験したあとにも関わらず、皆さんの表情が朗らかなのだ。
筆者は、当ルポの(3)で登場した同地区出身の大学院生、Aさんの言葉を思い出した。雄勝は地域の結び付きが強く、団結力があると聞かされていた。非常時でも、個人同士の結びつきが生きているからこその笑顔、そして朗らかさだったのだと納得した。
筆者はAさんの親御さんを探した。Aさんからも聞いていたが、同地区は市街地に比べ犠牲者が少なかった。産経新聞によれば「住民は380人中、死者1人、行方不明者8人で全体の2%程度。背景には、地域で受け継がれてきた知恵や防災意識の高さがあった」
住民の中で高齢者の比率が高く、先人の教えが徹底されていたことが奏功したのは間違いない。
ほどなくして、Aさんの母親、Cさんに出会う。筆者はクルマから食糧、長靴、軍手などの必需品のほか、石巻日日新聞から預かった同紙のバックナンバーを手渡すことができた。また、拙宅に毎週届く週刊誌、漫画誌の類いに加え、漁師さん用に焼酎の特大ボトル、煙草も提供させていただき、わずかばかりの支援物資搬送という役割を終えた。
だが、石巻の市街地でがれき処理を行う地元民に出会ったときと同様、避難所に暮らす水浜の人たちにファインダーを向けることができなかった。
折しも、筆者とは別便で大量の物資が到着したばかりで、避難所が忙しく動き出していたこともあるが、朗らかな表情の住民とは対照的に、かつて集落があった場所の被害がすさまじ過ぎたからだ。ほとんどの家屋が流された直後であり、忙しく動き回る人にカメラを向けていては、明らかに邪魔になると判断した。またもジャーナリスト失格である。
●海とともに暮らしてきた人々の心
同集落は、ホタテの養殖で有名だ。また、岩ガキの名産地でもある。水浜産の産物は筆者の大好物。特に、この地域で獲れる毛蟹は絶品だ。だが、漁船や漁具、養殖のいかだは、沖合に流されてしまった。地域の年老いた漁師さんに聞いたところ、あの日以前に漁場を戻すには5年かかると教えられた。
水浜を後にする際、Cさんはじめ、炊き出し中のご婦人方には近々また顔を出させてもらう旨を伝えた。
大震災は地元民の生活を激変させた。ただ、被災地以外では、惨禍の記憶は薄れていく。マスコミの扱いも確実に減っていく。TwitterのTLがすさまじい速度で流れていくように、被災地以外の人間にとっては被災者の苦しみはしょせん他人事と片付けられてしまうのだ。
筆者は定期的に石巻や牡鹿半島を訪れ、復興の過程をリポートする腹を決めた。同地の産物のすばらしさを被災地以外に伝えるために、また、この地域で暮らす人たちがどのように再興を果たしていくのかを、定期的に読者に届ける心づもりだ。
当ルポの最後に、水浜の存在を筆者に教えてくれたAさんの言葉を刻んでおく。Aさんが震災後、初めて故郷に戻る際に記したメールの一部だ。
「こんなに憎むべき海なのに、いつもどおりふるさとの海を見ることにわくわくしている自分がいます」
海とともに暮らしてきた人々の心は折れていない。
最後の最後に、我が愛車にはお疲れさまと付け加えさせていただく。昼夜ぶっ通しで、釘やガラスが散乱する中で奇跡的にもパンクなしで走り続けた1100キロ、ありがとう。
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